恋と愛の違いについては、よく話の種にされますね。
43歳の僕が今考えられる範囲では、
恋は受動的であり、愛は能動的であるということです。
恋は、他者からの刺激を「受け取る」ことによって感じられます。
かっこいいから好き、優しいから好き、美しいから好きなどとい
うように、好きな理由は人それぞれ様々ですが、他者から何らか
の刺激を受け取ることでしか得られない他者依存のものです。
それに対して愛は、自分から他者に対して積極的に行動を起こし、
それを時間をかけて積み重ねていくことで生まれます。
恋は、単に好きか嫌いか、それだけが判断材料ですが、
愛は、たとえ相手に対して恋心が無かったとしても生み出すこと
ができます。
さらには、もしも相手のことを嫌いであったとしても、その人に
対して何か手助けをしたり、自分を犠牲にして奉仕したりしてい
るうちに自らの中に自然に生まれてくるでしょう。
ですから、恋が強まって愛に変わるということはありません。
そして、恋が無いところにも愛が生まれることがあります。
幼稚園の先生が、
「可愛いからお世話するのではありません。
お世話するから可愛くなるのです」
と言っていましたが、子供への愛はそういうものなのでしょう。
可愛いという感情よりも先に、まず世話をしなければならない
という親の責任があって、面倒なことを嫌々ながらでも毎日
やっているうちに、愛が生まれてくるという話です。
そのように恋と愛を理解しますと、結婚相手は、
好きではない人でも良いということになります。
さらに、相手のことを嫌いであればあるほど、その人に対する献身
を通して、より強くて大きな愛を得られると言われています。
僕の子供がある日、学校からの帰り道にカタツムリを拾って
きました。
家で飼いたいと言うのです。
僕は面倒だなあと思いました。
僕のカタツムリへの恋心はゼロです。
子供はカタツムリへの恋心でいっぱいです。
「カタちゃん」と呼んでいました。
仕方なく飼うことにしましたが、相手は生き物なのですから、
毎日野菜をやり、カルシウム摂取などの栄養も考えなければ
いけませんし、フンの掃除もしなければいけません。
そんな面倒なことがいつしか僕の日課になってしまいました。
そういうことを嫌々ながら半年もやっているうちに、僕は毎日、
カタちゃんの様子気になるようになってしまいました。
カタちゃんのことがいつも頭にあるのです。
僕がカタちゃんの世話をしなければ、カタちゃんは生きていけ
ないでしょう。
子供たちは未だに恋心を持っているだけでしょう。
しかし僕のカタちゃんへの想いは、恋心を一度も経ることなく、
もうすでに愛として生まれていたのです。
カタちゃんを愛しているのです。
セピア色の日々/作曲:山谷 知明